アメリカの超帝國主義2022年08月03日 17:57

米國の太平洋管制網系一般圖
 『亞細亜民族と太平洋』松本悟朗 著

 第十三章 米國の実態と其超帝國主義

 (275-284頁)
 三 アメリカの超帝國主義       2022.08.03

 上述の如く米國は世界第一の成金國であり、巨大な資本主義國であると同時に、否なさうであるがために、また世界第一の超帝國主義國である。
 從來、米國は謂ゆるモンロー主義のヴェールによつて、如何にも平和愛好者であるかの如く見せかけて來た。或は孤立主義を唱へ、或は不介入主義を唱へて、如何にも波瀾を好まぬものの如く裝うて來た。だがこれこそは、米國式の便宜主義によるもので、本質はむしろその反對なのである。
 アメリカ人が、新世界の開拓と經營とに沒頭してゐた間は、無論他國と事を構へ、或は他國(要するに歐洲諸國)に煩はされることを好まなかつたに相違ない。また最近にしても、謂ゆる「金持喧嘩せず」といふ譬へのやうに、損失の多い武力戰爭は、成可く避けようとする傾向があつたのも事實である。しかし、それ等はすべて打算と都合によることで、本來平和的國民であるわけでは毛頭ない。
 米國は歐洲に對しては不干渉主義を唱へながら、極東に對してのみ謂ゆる門戸開放を名として非常な干渉主義を執り來つたやうに解されてゐる。しかしこの見解は、合衆國が成年期に達する以前はともかく、すでに第一流資本主義國と化した今世紀においては、全く通用しない。
 元來モンロー主義は、自己擁護のために、歐洲列強の干渉を排撃せんとする政策であるが、それは必らずしも歐洲への干渉を絶對拒否するものではない。否な、自國の勢力が歐洲への干渉について何等不安なく、且つその干渉が、自國にとりむしろ有利である場合は、いつ何時でも敢てそれを避けるものではない。また事實、過去においても米國はそれをやつて來たのである。要するにモンロー主義は、他からの干渉を許さぬが、自ら他に干渉することは、それが自己に必要であり有利である限り、決して遠慮しない、といふのがその實體である。これは誠に自分勝手な話であるが、この自分勝手こそは元來米國人の本性なのである。
 米國は過去においても、例へば十七世紀末に、英國のウィリアム三世がフランスのルイ十四世に對抗するため「大聯盟」を作つた時にはこれに加擔し、謂ゆる「ウィリアム王戰爭」に端役を動めたし、十八世紀初めのスペインの王位繼承戰爭――「アン女王戰爭」にも參加したし、オーストリア王位繼承戰爭にも參加した。またその獨立戰爭の時には、フランスと手を結び、その援助によつて英國と戰つたのである。   、
 その米國が、前世紀末に立派な資本主義國に成長すると、今度は正義人道の名においてスペインのキューバ統治に干渉し、キューバ擁護と稱してスベインに戰ひを挑み、その結果スペインからキューバ、ポルトリコ、フイリツピン、グアムを奪取した。これこそ實に驚くべき干渉であるが、特に興味ある事實は、最初、戰勝後に於ける獨立を約してフイリツピンの革命軍を利用しながら、一度び比島奪取に成功するや、忽ち態度を一變してその約束を反故にし、剩へ革命軍を利用しながら、彈壓するに至つた欺瞞的な態度である。こゝに米國の本性がよく現はれてゐるのである。
 さて、これに味をしめた米國は、やがてハワイ諸島を併合し、さらに謂ゆる汎米政策に乘り出してラテン・アメリカ諸國に鉾を向け、グヴエネゼラ・ギアナ間の國境問題に干渉し、或はコロンビアからパナマを奪ひ、或はニカラグア、ハイチ等に干渉し、或はサンサルヴアドル、ホンジエラス、エクアドル、ボリビア、ペルー等々より南米諸國にまで内政干捗の手を伸すに至つたのである。そして多くの場合それ等は、ウオール・ストリートの財力を中心としてはゐるが、必要に應じて常に武力行使をも敢て辭しなかつたのである。
 米國の極東干渉については、前に各章に亙つて一通り述べたから、こゝに再説の必要はないが、世界大戰當時から現在に至るまでの、對歐干渉も實に著しいものである。米國の第一次大戰參加は、その對外策の新段階と稱せられるが、その實際の勣機は、自國の對歐債權擁護のためと、戰後における歐洲市場を重視したことと、も一つは戰後の國際政局への發言權を留保するためとであつた。そこで、いよいよ戰爭の運命が決まると、ウイルソン大統領自ら歐洲に乘出して、平和問題一切のマネージャーたらんとし、そしてヴエルサイユ會議や國際聯盟組織の主人役を勤めたのであつた。
 尤も、ウイルソンの意圖は、表面的には失敗に終つた點も少くないが、しかし聯盟に對しても側から常に「監視役」を勤め、且つ戰費賠償問題等についても、常に指導的役割を演じ、そしてヨーロツパは、事實アメリカの金力の前に萬事兜を脱がざるを得なかつたのである。
 周知の如く、第一次大戰を契機として、米國は世界一の債權國、國際金融國となり、また英國に代つて世界の工場――世界一の工業生産國となつた。すなはち超資本主義國となり、同時に超帝國主義國となつた、そして、米國にとり、ヨーロツパは自國の農産物や工業生産品や資本輸出の一大市場と化し、また貨附資本回収のためにもヨーロツパヘの再投資が必要となり、事實ヨーロツパの復興は米國資本によつて行はれたともいへるわけで、ドルによる世界制覇の一場面がここにも開かれたのであつた。
 同時に米國の經濟力は、カナダにおいても中南米においても壓倒的なものとなり、イギリス帝國主義の陣地や市場を、次から次へと奪取した。
 三百年來世界貿易を支配して來た英國は、一九二九年にその地位を米國に奪はれた。同年における大英帝國の世界貿易に占める割合は一四・八%であつたが、今衆國のそれは一五・七%を占めた。そしてその翌年には、この割合は英國の一二・五%に對し米國は一八%を示すに至つた。資本輸出においても、同じ時に英國はその地位を米國に奪はれた。米國の對外投資の異常な進出は、特にラテン・アメリカにおいで見られた。大戰前ラテン・アメリカにおける外資六十億弗のうち、約四十億弗は英國に屬し、米國は僅かに十二億五千萬弗を有するに過ぎなかつた。しかるに一九三○年には、英米兩國共約五十五億弗づつになつた。また英領カナダにおける外資は、一九二〇年から一九三〇年に至る十年間に、英國の割合が七七%から三九%に低下したのに對し米國のそれは一七%から五七%に増大し、かゝる情勢はその後ますます進展した。南米では、米國の資本家は、英國所屬の電氣株等を市價より二割五分も高値に買占めて、ドシドシその勢力を擴大した。米國の銀行家は、南米大陸の隅々にまで經濟的に浸潤することの意義を高く評價し、當面の損失を全く度外視して英國の利權を買収した。米國のかゝる態度は、多かれ少かれ殆んど全世界の到る處に見られ、「ドルによる世界征服」が一般政策として推進された。
 しかし、一九二九年の恐慌は米國に對して最も深刻なものであつた。英國は植民地を有するがために比較的容易に恐慌を切抜け得た。この事實を見た米國は、その後一層勢力的に南米市場の隷属化に努力し、ためにこの地方では英米の闘爭が激化し、屡〻武力衝突をさへ招來した。例のチャコ問題(ボリビア――パラガイ戰爭)にしても、一九三二年のブラジルの市民戰爭にしてもその一端を示すものである。また英米の通貨闘爭にしても、戰債問題にしても、要するに、英米二大資本主義國間の經濟制覇戰を物語るに過ぎぬものであつた。
 かくて米國の勢力が世界的に膨脹すると共に、リユドヴエル・デニーのやうに、「日々に狭まり行く現代世界において、英米の如き對立する略奪的二大帝國の併存する餘地はない。英國が自發的に米國のヘゲモニーを認めるか、でなくばこのヘゲモニーが血の闘爭によつて確立される外はない」と公言するに至り、結局のところ英國は、米國の前に屈伏させられたのである。
 他方米國は、十九世紀末葉から海軍充實計畫に乘出し、その海軍は、一八八三年には世界第十二位であつたのが。一八九三年には第五位、一九〇〇年には英、佛に次いで第三位となつた。その軍艦建造に最も協力したのは、實にかの慈善事業で世界的に有名な鋼鐡王カーネギーであつた。そして第一次大戰後、ワシントン會議においては、米國はつひに海軍の同比率を英國に承認させ、日本にはその五分の三の比率を押しつけて、世界一流の大海軍國となり、最近では、周知の如く、世界第一の海軍建設を目指して邁進しつゝある。(これについては後章に詳述ずる)
 とにかく、米國のドルの力が世界に氾濫し、その利害が全世界的に繋りを持つと共に、米國の謂ゆる國防線も世界的に擴大されることになり、從つて例のモンロー主義も、西半球間に閉籠ることは出來なくなつた。
 すなはち.「日々に狭まり行く現代世界」においては、米國の國防線は、曾つて軍事評論家が「數十年後には、歐洲の大西洋岸とアジアの大平洋沿岸とが合衆國の國境となるであらう」と豫言したところを、僅か數年間で突破し、最近はフランスやシンガポールや支那にまで國防線が延び、同時にそのモンロー主義も、太平、大西兩洋の彼岸にまで擴大されたのである。
 何もかも「米國第一主義」から割出すワシントンの外交政策からいふと、英國に代つて新興ドイツや新興日本が強大化することは、ラテン・アメリカや東亞においてはいふまでもなく、大西、太平兩洋を含む世界のいづれの場面においても實に恐るべきライヴアルであり、また米本土にとつても一大脅威でなければならない。米國が民主々義や世界文明擁護の名において、ヒツトラー打倒、日本打倒を叫ぶに至つたのも何等不思議はない。
 やがてフランスは倒れ、英國は危機に瀕した。米國にとつては英國の海軍力も當てにならなくなつた。今までのやうに、ドルの力だけでその世界制覇の野望を達し得る見込みはたくなつた。その全世界的モンロー主義を擁護するためには、強大な武力が不可缺となつた。米國が世界史上空前の大軍備擴張に乘出したのも誠に當然であつた。
 ルーズヴエルト大統領は、ヒツトラー總統の世界征服の野望云々を世界に向つて盛んに放送した。また東亞における飽くなき侵略者として頻りに日本を誹謗した。何んぞ知らん、眞實世界征服の野望に撚えるものは米國であり、ルースヴエルト大統領であつた。そして日本もドイツも、米國との紛爭を避けるべく萬全の努力を拂ひ來つたにも拘らず、反對にルーズヴエルトとその好戰的一派は、日獨に對してあらゆる挑戰的行助に出ることを自制し得なかつた。成金的自負心に逆上したかれ等は、自分の命に服せざるものの存在を許さぬかの態度で、成丈高に怒號し、且つわれわれを威嚇した。
 そこで、「隠忍にも度あり」として、つひに癇癪玉を破裂させたのは日本であつた。日本はつひに宣戰した。そして劈頭まづ、米國の横面に一大痛打を加へ、かれを不具者にして了つた。次いでかれの忠僕と化した英國に對しても痛撃を加へた。わが盟邦獨伊もまた敢然と辿らんとしてゐるのであるる。

引用・参照・底本

『亞細亞民族と太平洋』松本悟朗 著 昭和十七年四月二十七日發行 誠美書閣

(国立国会図書館デジタルコレクション)