米國の國是政策侵略主義に一變す2022年08月12日 08:10

五ヶ国人物之内英吉利人
 『小説 果然日米〇〇』樋口麗陽著

 (一二-一六頁)
 四、米國の國是政策侵略主義に一變す 2022.08.12

 日本は遂に米國に對し、武器を執つて蹶起するの已むなき事情に追ひ詰められたが、其禍因は遠く一百有餘年前に發生して居た。米國が最初英國に反旗を飜へした理由と目的とは、英國の暴虐政治の束縛より脱し、自由を得んとするにあつた、獨立戰爭に成功した米國は完全に其目的を達して自由の米國を作り、自由の合衆國を組織した、爾來米國民は、建國の精神を忘れず、奴隷解放の南北戰爭後は、自由に加ふるに平等を以てし、眞に地上の樂園かの如き觀を呈して來た。
 若し米國が、永久に建國の精神を忘れず、眞劍に自由平等を守り、眞の正義人道主義を奉じ、絶對平和主義を標榜實行して居つたならば、日米間には何等戰爭の禍因となるやうな問題は發生しなかつたであらうが、米國及び米國民は、歴史のページを延長するに從つて建國の精神を忘れ遠ざかつて行つた。人口の増加、科學の進歩、商工業の賑盛、富源の開發、其他文明的一切の異常な急激の進歩發達は、米國民を驅つて驕慢に走らしめ、米國の國是は何時の間にか帝國主義となり侵略主義となつた。其國是から割出される一切の對外政策も同樣に帝國主義政策侵略主義政策に變化した。
 米國が對外的に平和主義を實行して居たのは一七八三年に獨立建國して以來僅かに六十年ばかりに過ぎなかつた。即約半世紀間だけが米國が建國の精神獨立の主義を忘れず失はず離れずに居たに過ぎなかつた、ところが獨立後六十年を經つてからの米國は建國の精神と全然反對の方向に動いて行つた。絶對平和主義であつたのが條件附の平和主義に變化した。非侵略主義の國是は何時の間にか侵略主義に早替りしてしまつた。正義人道主義が何時の間にか中身が入れ代つて假面の正義人道主義、看板だけの正義人道主義、表面丈けの外殻だけの、自國及自國民に都合の宜い時だけの正義人道主義に變化してしまつた。
 米國の國是政策が帝国主義となり侵略主義となり、それが實行されたのは米墨戰爭に端を發して居る。米國は當時既に厖大なる領土を有して居たのであるから何等領土的慾望は無かるべき筈である。然るに米國は墨國と開戰して、ニューメキシコ州、カリフオルニア州、アリゾナ州、ネバダ州、コーター州(ユタ州?)、ワイオミング州六州の一部約九萬四千七百方里の地を併呑した。そればかりでない、其の前にも墨國領テキサス州民を煽動して叛旗を飜させ、一時獨立共和國にさせて置いて、米墨戰爭勃發の前年に米國に併呑してしまつて居る。此のテキサス州は面積六萬四百十五方里で我北海道位の廣ささがある、だから其翌年戰爭でふん奪つた六州の一部と合せると十五萬五千百十五方里、正に我日本の本州と四國とを合せた程の墨國領土を併呑したわけである。
 米墨戰爭は米國がテキサス州民を煽動して獨立させ、直ちに之を併呑した時の國境畫定上の爭ひから起つたことである。即米國はテキサス州を併合した時グランド河を以て米墨の境界となさんことを墨國に通知したが、墨國はヌエセス河を以て米墨の境界であると主張し、兩國共其主張を頑張つた結果戰爭となつたのであるが、米國側の記錄にあるやうに、果して墨國の非曲にあつたか何うかは頗る疑問で、公平に判斷すれば、米國の主張は餘りに自分勝手であつた誹りを免かれないといふことの正しい批評であることを思はざるを得なかつた。然し其理非曲直が米墨の何れに在つたかは別問題として、米墨戰爭が、明かに米國の國是及び對外政策の一轉化を事實上に立證するものであることは否定することの出來ない事實であつた。
 斯くて建國當初の國是政策と、全然反對の方面に驀進し始めた米國は、漸次太平洋方面に活動を開始し、サモア島に干渉政策を行ひ、次で金門灣頭を距る二千浬、太平洋上の小王國布哇を併呑するに至つたが、米國の此の布哇侵略行動こそは、日米兩國をして、衝突線に對立せしむる最初の禍因となつたものであつた。

引用・参照・底本

『小説 果然日米〇〇』樋口麗陽著 東京九十九書房發行 1921

(国立国会図書館デジタルコレクション)