米國の布哇併呑事件日本政府の抗議2022年08月22日 08:56

横浜波戸場景色
 『小説 果然日米〇〇』樋口麗陽著

 (一六-二四頁)
 五、米國の布哇併呑事件日本政府の抗議  2022.08.22

 今日では、布哇が米國領であることに、何人も不思議がるものもないが、今日米領布哇といふ以外、何等の注意も拂はれない布哇も、曽ては小さいながらも獨立した王國であつた。何所の御厄介にもならずに獨立獨行の出來る王政の國であつた。ところが米墨戰爭後約五十年經つて、哀れ此の洋上の小王國は、強大なる米國の爲めに一堪りもなく併呑されてしまつた。
 米國の史書記錄には、併呑の理由が麗々しく記述されてあるが、要するに大蛇が雨蛙を一呑みに呑んでしまつて、後で自分に都合の好い理由を並べ立てたやうなものである。米國が何と辯解しても、事實は何より雄辯の證明である。米國が太平洋方面に活躍するに最も好都合の踏段は此一小王國布哇であつた。布哇を米領とし、之れを足溜まりとし根拠地の一つとすれば、米國の太平洋横斷政策が、最も有利に進行することは、當時明白な事實で、米國の有力な野心家は遂に布哇侵略計畫を樹てた、併し無名の師を起して遮二無二併呑することは、列國の手前として、流石の米國も遠慮しないわけには行かなかつた。
そこで米國の政治家は、國王が女王であるのにつけ込み、布哇民の反王黨の不平分子を煽動し、革命運動を助長し、米國軍隊援護の下に革命を勃發させ、國王を逐うて革命政府を樹立せしめた。而して布哇革命政府及布哇島民の希望であるといふ理由の下に併呑約を締結し、法律を制定し、知事を任命した。
 斯くて米國は布哇併合條約を發表した。日本は同島と密接の利害關係を有して居たので、此條約發表に對して、左樣でござるかで文句なしに承認するわけには行かなかつた。日本政府は、直ちに左の三個の理由によつて、米國政府に抗議した。
 一、布哇獨立の維持は太平洋上に利害關係を有する諸國の平和を維持するに必要であること。
 二、米國の布哇併合は、布哇在住日本住民が條約に依つて取得した權利を危くする恐れあること。
 三、併合條約は對布哇日本要求の決定を遅延させる虞あること。
 ところが、米國の國務長官は、此の日本の抗議に對して、布哇併合は日本の憂慮する如き、太平洋に利害關係を有する諸國の平和を破壊する危険は絶對にない。且つ日本は曩の一八九三年の條約に對してのみ抗議をを提出するのは諒解に苦しまざるを得ぬと突込んで來た、日本政府は、無論曩日の條約に對しては抗議しなかつたが、其後日本の太平洋に於ける利益は著しく増大し、活動範囲も擴張して居り、前條約の場合と日を同うして論ずべきでないと抗辯したが、米國の態度は日本の抗議に閉口垂れて、一旦併呑した布哇を吐き出すほどの臆病者ではなかつた。結局日本は、米國より日本人の既得權利と係爭中の要求とは併合によつて毫も毀損するものでないといふ保證を得て、米國の布哇併合を承認する外はなかつた。而も當時に於ける布哇住民は布哇人二萬九千七百九十九人、雜種布哇人七千八百五十七人、白人二萬八千八百十九人、支那人二萬五千七百六十七人で日本人は六萬一千百十一人の多數を占めて居つた。之を百分率にすれば布哇人一九・三パーセント、雜種布哇人五・一パーセント、白人一八・七パーセント、支那人一六・七パーセントで、日本人は實に三九・七パーセントであつた。其他に黒人などが六百四十八人あつたが、これは〇・五パーセントにしか當らなかつた。布哇全人口十五萬四千一人中、布哇人白人を合せても六萬六千四百七十五人に過ぎない。之れを在住日本人の六萬一千百十一人に比較すれば、僅かに千三百六十四人しか多くない。此の一事實を徴しても、當時日本の同島に於ける利害關係が、決して輕微なものでなかつたことが明白である。從つて日本は、飽くまで布哇の獨立維持を主張し得る權利があつたが、憐むべし、當時の日本は、米國を向ふに廻し飽くまで抗爭する實力がなかつた爲めに、在住日本人の既得權利と係爭中の日本要求とは併合にによつて毀損せらるゝことなかるべしと云ふ一片の保證を與へられたのに不満足な満足といふ變手古な態度で、泣寝入りとなつてしまつた。
 果たして米國政府が言明した如く、米國はの布哇併呑は、爾來太平洋に利害關係を有する諸國の平和に危険を及ぼすことがなかつたのであらうか、米國が日本の抗議を以て一片の杞憂に過ぎないと言つた如く、果して杞憂に終つたであらうか……?
 否、否、其後の事實は、米國の言明を悉く裏切ることばかりであつた。太平洋に於ける日米兩國の利害關係が増大するに從つて、當時米國が布哇を併呑したことは、日米兩國をして衝突線の上に向合はせる重大な禍因の一つであつたことが、米國夫れ自身にも否定することが出來なくなつた。
 過酷なる支那移民禁止法案が殆んど滿場一致を以て國會を通過し、法律となつて發布され、支那人が完全に排斥されてからは、日本移民の布哇渡航數は急激に増加し、同島に得於ける日本人の經濟的發展が、目覺しい勢いで進展するに及んで又同島を經て對岸加州に移入する日本人の數年々増加し、其發展の注目に値するものあるに及んでや、日米間の親善なる國交上に重大なる亀裂を生ぜんとするに至つた、日露戰爭に於て、日本が連戰連勝して世界最大の陸軍國露西亞帝國の勢力を極東より駆逐し、世界列國民を呀と驚かせ、一躍一等國となり列強の班に伍し、一般米國人の日露勝敗觀を根底より顛覆し去つた事實は、米國の對日感情を一變せしめ、好感好情は忽ち反感となり恐怖的憎惡となり、俄然排日運動となり、桑港に於ける日本學童隔離問題となり、日本に取りては屈辱的紳士條約となつた。
 否、啻にそればかりでない、布哇が米國に併呑されて、對東洋政策の根據地の一となつた結果、米國の太平洋方面の發展政策は着々進行し、驀進的に進展した。それが爲に、日米間の好ましからざる問題は、殆んど年々歳々發生して、日本を悩まし苦しめるやうになつた。随つて日米戰爭とか、日米開戰などといふ忌まはしい言葉が、局外國人の口からばかりでなく、日米兩國民間にも、重大事件發生して輿論の沸騰する毎に、取沙汰せらるゝに至つた。  然し日米間が漸次衝突線の上に對立するようになつたことは事實であつた。兩國の政府及び識者が、殊に日本の政府や識者が、寧ろ卑屈と思はれるほどの謙譲な態度で、國交の親善を計ることに努力したにも拘はらず、兩國利害の摩擦面は年々歳々擴大し、兩國衝突の可能性の分量は歳々年々増大し且つ露骨になつて行つた。

引用・参照・底本

『小説 果然日米〇〇』樋口麗陽著 東京九十九書房發行 1921

(国立国会図書館デジタルコレクション)