老境の雜書雜讀2022年08月30日 13:35

雅邦集
 『典籍雜考』新村出 著

 (1-1頁)
 序 文                 2022.08.30

 不思議な因縁で、十年ごとに典籍に鴎する随筆が輯められて出販されることになつた。第一は大正十四年の典籍叢談、第二は昭和九年の奥典籍散語、そして第三は今度の典籍雜考。いづれも鷄肋の斷片、いや、反古紙のきれぎれ、それが人の厚意で、而も最近の時局下に世にあらはれんとしてゐるのは、感謝と共に慚愧の念も一入である。
 それに、三度とも、狩野君山博士の題簽を辱うしたことは、著者にとつて、この上もない光榮である。但すでに喜壽を迎へられて悠々自適の裡に老を樂しんで居られる耆宿をこの程三たび煩はしたことは、洵に濟まぬことであり、わたくしが感激の情も更に一段である。
  昭和十九年十月四日 滿六十歳を迎へて
             京都小山居 新 村 出

 (1-9頁)
 老境の雜書雜讀          2022.08.30

 少年期青年期にはさうではなかったが、老年退閑後の私の讀書はとかく雜駁に傾くばかりである。それに毎月一度や二度、どうかすると三度もする東京への往復をいつも好んで晝間の汽車旅をするものだから、殊にその汽車中は雜書の雜讀を専一にする。内容のむつかしい、手に重さのかかる大きな本を避けて、内容も形體も輕い小形な本、成るべく持ち易い四六判か袖珍型の本を選んで、いつも何冊かを携帯してゆくことにしてゐる。活字の組みもまばらであるもの、成べくは大きい文字の本を選ぶが、内容の讀みごろの本なら、時には我慢して持つてもゆく。まづ随筆か紀行か詩歌の本が多い。長篇ものは御免を蒙むつて、殆ど區切りの短い本を選びがちである。從つて、例へば岩波文庫本の屋一つ二つどころのものは、つい手頃なために、どうかすると何部もたまつて書架を塞けてしまふ有樣である。
 老後の教養のための讀書だなどと、しかつめらしい筋合ではない。單に消閑の具といつてのける方が正直でゐらう。そしてその場合、自分の癖として、その本の扉などに、何年何月何日何處で買つたとか、何處から何處の間で讀みつゞけて如何なる感想を以て讀了したとかいふことを書いておき、後日の思出にする。三年五年の後、忘れてしまつた頃に、往年の思出に耽つて、人知れず樂しむことが多い。これは、實は白状すると、青年期において讀んだ五山の詩僧桃源瑞仙が、その史記抄や百衲襖(周易抄)の卷々の末に、應仁の乱時分の隠棲乃至靜閑氣分の感想や心境や環境などを識語として錄してあつたり、又吉野朝時代の戰亂の空氣の裡に東寺の悉曇學者の呆寶がその悉曇字記創學鈔の諸卷に、同じやうな後語を識るしておいたりしてあつたのを見て、段々見ならつたのに外ならなかつた。専門學上の書物や美本などには、さすがにそんなことをしないが、閑餘のんきな讀書には、そんな無駄書きが頗る多いのである。
 それからもう一つ自分の癖としては、さういふ場合の讀書の際には、赤や青の鉛筆で、誰しも人のするやうに、快適の文句語句に記るしを附けることをするばかりでなく、私は本の前後の餘白にもつてきて、それらの語旬の索引を書いておくことが多い。本を穢すことおびたゞしい。さすがに善本にはは試みないが、普通本にはそれを屡々やるのである。但し別の覺帳に一々それを分類的に摘抄しておくとか、カード式に抄出しておくとよいのであるが、そこまで根氣もなく手が届かない。どうかすると、特に一定の類語を素出するために、雜書を渉獵することも多い。趣味を忘れ、教養を顧みずに、たゞ漫然と語句の檢索を事とするに了ることも屡々ある。これも一つは自分の専門や習癖があらはれるのであらう。然しさういふ際にも、全然語句の末に沒頭しきれず、常に二兎を追ふの弊に陥らないでもない。
 檢出抄錄すする語句は、むろんその時析の興味本位であつて、コンコーダンスめいたものではなく、單に不完全な心覺えにすぎない、極めてむらなものではあるが、後日自分だけにはかなり役に立つものがある。古典的なもの、中世的なもの、近世的なもの、文藝的乃至科學的、何に限らすであつて、萬葉集もあれば七部集もあり、アルプス物もあれば、戰爭物もある、といふ具合に雜然としてゐる。注意する語句には、雲あり星あり草木あり鳥蟲あり、人間あり世間あり、忠孝あり父母ありといふ按配で、雜駁を極めてゐる。
 かういふ讀書法は、一般には讀書法として薦められないが、然し自分だけには一の讀書法であって、博識を求めるばかりでなく、趣味の涵養にも資し、相當な教養にもなつてゆくのである。かういふ讀書法は、自分にはこれから益々進んでゆくばかりであらう。さういふ際に、同じ本を何度も違つた角度から讀みなほしたり、或は何度も別な語句の點檢のために見なほしたりすることがある。再三讀んで段々味が加はる本もあれば、又二度目には失望するやうな書物もある。これは何人も常に經驗する所であらう。隨筆類などの中にも同一誉者のものをいくつも隋誠して益I感服することがあると共に、さうはゆかぬ場合も折々ある。少年時に讀んだ本を、老年期の咋今に讀みなほして、妙味を發見することの多いのは、幾多吾々の仲間が遭遇する所であらう。私には、モの一つに、朱子の小學がある。
 朱子の勸學文などは私どもの幼年の時には好んで誦したものであつたが、お定まり通り、老い易く學成り難くに了つた。その小學書は、十歳ごろ及び十七歳のときの私塾時代に、先生の講釋や素讀で仕込まれて今でも少々は頭に殘つてゐる。それを近年ふとした奇縁で新しい活版本で讀みなほした。その因緣話はかうである。それは昭和十一年の正月のこと、當時在職中の京都帝國大學の圖書館の閲覧室が燒失したことがあつた。その時、私は東京に居たが。即夜歸洛して出迎への人と話の末に、玄關に掛けてあつた西園寺公の額も燒けたらうな、と尋ねた所、いや不思議に一二の學生が取り出して無事に助かりました、といふ話である。その額といふのは、京都大學創立の爲に文部大臣として努力された西園寺さんが、その因緣を以て創立後二三年後に、囑に應じて「靜修館」といふ額を書いてくれられ、爾來四十年間ほど木造の古ぼけた閲覧室の入口に掛かつてゐたのである。明治三十三年五月、正二位勲一等侯爵西園寺公望書とあつて、立派なものである。十年餘の後、それに因んで京大から靜修書目答問と題する讀書指針の一冊が出來たこともあつたが、靜修の名はそこから起つたのである。この靜修の二字の由來は朱子の小學卷之五、外篇の第五章嘉言の部に出てゐる、諸葛武侯が子を戒むる書に、君子之行、靜以修身、……夫學須靜也、……非寧靜無以成學、……とある文句から來てゐる。元子卷一七一、朱子學者の劉因傳にも、彼れが嘗て諸葛孔明が靜以修身の語を愛して、自分の居所に靜修と名づけたと云ふ樣な故事もあつた。その後、東西往復の汽車の中で、屡々遭遇する公に昵近の某君を以て靜修館の額が火災に救はれた由を陶庵公に通じたことがあつた。そんな因緣から近年五十年ぶりで、小學を讀みなほして見ると、處々に記憶を新にする章句が多い。伏波將軍の馬援が交趾遠征中に書を送つて姪どもを戒めた書の如きも其一である。諸葛武侯の書の少し前に出てゐるが、鵠を刻して成らず尚鶩に類する者也といひ、虎を晝いて成らず反つて狗に類する者なりといふ譬喩の如きはいつも馬援の言を思ひ起させる。もう一つは范魯公が從子を戒めた長詩で、五言の句で調子が非常に好く、灼々たる園中の花、蚤く發けば還つて先づ萎む、遅々たる㵎畔の松、鬱々として晩翠を舎む、などといふ末の方の對句などは、少年時代の口に泥んで、近来座右に置いて讀み直してみると、古人に恥づることが益〻多い。我は本と羇旅の臣、尭舜の理に遭逢し、位重くして才充たず、戚々として憂畏を懐ふ、深淵と薄氷と、之を踏みて唯墜ちんことを恐る、などの文句になると、私は感慨之を久しうするばかりである。内篇の方を見ると、健康に注意した曾子のことが最も私にひきくらべられたり、専制とか文藝とかいふやうな語句がよしや最古の出典ではなくとも、自分の眼につくやうな有樣である。
 かくの如く、小學の一書は、三字經とか孝經とか論語とか云ふ漢籍と共に、自分にとつて格段なつかしいものとなつてゐるが、火災の因縁によつて讀みかへして老後のこよなき教訓を得た。上記の馬援の如きも、後漢書の列傅などに據らずに、私は先づ小學でその名とその南征を知つた樣な次第で、雜書――朱文公の小學などを雜書と云つたら濟まないかも知らぬが、とにかく雜書から、色々な知識や修養を得ることは、經典や正史から得る場合よりも、偶然な因緣によつて幸せられて、割合に多いやうである。まとまつた眞の知識としてはとにかくであるが、雜書の雜讀はなかなかあなどり難い。
 讀書の因緣といふものは、無秩序におこるものであつて、偶然的な場合が甚だ多い。讀書は始めから一定の順序を立てて進むこともあり得るが、私などは、自分の性格からであらうが、勝手氣儘にまかせて、それからそれへと展開し、擴大してゆき、取りとめがない。それに、一つは専門上、一つは性癖から、多岐多端、とかく横路に逸れ詮索に迷ひ、歸趨を知らぬことが多い。
 例へば、南支方面に皇軍が神速果敢な進展をする。これも昔、文章軌範や八大家くらゐの所で讀んだ滿州の韓退之や柳州の柳子厚の事を想起して、古書をひつくりかへしたくなる。惠州や海南島のことから、蘇東坡がおもひ出されて、四十年近くの昔、大學助手時分に奮發して買つた五山詩僧の四河入海といふ古活字版の蘇東坡の詩集を、この秋には蟲干しかたがた引きずり出して、讀みあさつた樣ないきさつもあつた。その惠州に近い龍川あたりに占居した南越王尉佗のことを、史記や漢書で詞べてゆき、その尉佗を説伏せて漢に降參させた高祖の功臣陸賈の事蹟を探つてゆくと、吾々が徳川家康が、馬上にて天下を得たが、馬上を以て天下を治むべからざるの道理を會得して、大に文教を興したといふ話を、幕臣として徳川實紀あたりで讀んでゐる所から、今その陸賈が、漢の高祖が乃公馬上に居て之を得たるに何ぞ詩書を事とせんやと豪語したのに對して、馬上に之を得たりとも寧んぞ馬上を以て治むべけんや、湯武は逆に取つて順を以て之を守れり、文武並用は長久の術也と申して、高祖を諌言した一條に接し、成程こゝから出たのだなと、今さらの晩學を自覺したやうなこともある。加之、それから陸賈鍼が高祖に王道を説いた十二篇より成る所の新語といふ一書をも知り、亦おくればせにその新語を圖書館から借出して來ては、初めてそれを一見するといふやうな次第。高祖は、陸賈の進言を一々嘉納し、左右みな萬歳を歡呼したとある。秦時代あたりから行はれた萬歳の歡呼がこゝにも亦出てくる。史記の秦始皇本紀に載つてゐる賈誼の過秦論は、壯年時代に讀んで、先王之道を廢し、百家之言を焚き、以て黔首を愚にするといふ文句に至つて、感慨極りなかつたことが囘顧される。黔首といふ新稱呼は秦漢の流行語でもあつたのか、史記の始皇本紀中に十ヶ所ほど見える。これも亦私の眼にはたゞ見すごされない。
 こんな取りとめもない雜然たる讀書は、決して人に薦むべきものではあるまい、老閑なる自分の特殊心境に限るべきものであらうが、生活と讀書といふ課題を、私一個の近年の生活にあてはめて筆を走らせたまでである。 (「圖書」昭和十四年一月)

引用・参照・底本

『典籍雜考』新村出 著 昭和十九年十一月廿五日發行 筑摩書房

(国立国会図書館デジタルコレクション)