魯迅先生の思ひ出話から2022年08月16日 15:26

雅邦集
 『上海漫語』内山 完造 著

 (158-159頁)
 魯迅先生の思ひ出話から       2022.08.16

 魯迅洗生の思ひ話を一つきく。
 魯迅洗生はいつでも私に老版!と云はれた。どんな時でも老版!であつた。或る目、

 老版!支那の一部分の話であるのにそれが恰も支那人全體の話ででもあるかのやうに言ひふらされて居ることがナカナカ少くないネ。
 あの山西省の人は支那人の中の猶太人と云はれて居る人間である。それは丁度猶太人のやうにお金に對する執着が非常に強いからである。
 北平や天津方面の錢莊は、全部山西人と云うてもよい程である。
 西洋人や日本人がよく言ふ支那人は、銀貨を溶かして塊りを造り、段々上から上から溶かしては掛けて大きな銀塊を造つて居ると云ふ話、丸で全支那の何處にでも大きな銀塊がゴロゴロして居るやうに言はれて居るが、この話などもつまり山西省の人は非常にお金に執着する結果として、銀を溶かして銀塊をだんだん大きくする。それが非常に大きくなつて、トテモ 動かす事もどうすることも出來ないと云ふところから、それを名づけて『沒奈何』と云ふ話を誰かがお土産話にしたのが、トウトウ決定的になつたのだネ
 又男の子が生れると、スグに十歳以上の娘を貰うて赤ん坊のお嫁さんにする、そして赤ん坊のお守りをさせて置く風俗なども山西が一番多いらしいネ
と云はれる。

 それは本當である。從來支那の事と云へば、滿洲の一角を見た人が、スグ支那はと云ひ支那人はと云ふのであるが、さうして内地の人々は下らぬ不正確な所謂土産話を聞かされて來たのである。それは今目の眞面目な支那を考へる人を、どの位禍ひして居ることであらうか。『沒奈何』の話一つでも充分解るやうに、誠にたよりない材料や話が私共の頭には這入つて居る。イヤ今日でも隨分あぶない話が不遠慮に這入つて來る。
 それ等の材料や話の種を、吾々は眼光を紙背に徹させて見直さねばならぬ。
 何と云うても支那人の生活の現象は、必ず表と裏との二而のあることを忘れてはならぬ。
 私はよく魯迅先生から聞かされたことだが、支那の事は複數であると云ふことを頭の中に常に持つて居つて、色々の表面の現象を見なければならぬ。さうでなしに簡單に表面だけを見て判斷すると、往々にしてその裏の不文の色々の習慣が正しく、表面はたゞ表面に過ぎない事が、往々にしてあると教へられたが、ホントだと思ふ。 

引用・参照・底本

『上海漫語』内山 完造 著 昭和十六年一月十二日十二版 改造社

(国立国会図書館デジタルコレクション)