默 想2022年08月20日 08:59

默 想
 『默想の天地』沼波瓊音 著

 寒 篇

 (1-2頁)
 默 想                     2022.08.20
     
 我は今深き默想に耽りつゝあり。昔より斯る事折々ありき。我に好かりし友、我が逢ひし少女、言も交へざりしが何故にや永く忘る能はざる、或る時或處にて擦違ひし路行き人、物も正しくは得言はざりいといと幼き折に見たる、夢のやうなる此世の樣、人となりて後に見つる、多の夕暮の物怖しき山路、雲低き日の菜の花見る限り續く畑、何事のありてか疾く起きて閨の窓押明けし折眼を射たる明星の光、滿月の夜半雨降りて空に鉛のやうなる鈍き色漲るを仰ぎっゝ大なる原を獨り歩きける折の心地なんど、總て來し方に見つる景色人々のうち我か胸に深く刻まれしが、悉く今ある如く目の前に展げられて、我が情は激しく衝動されて、悲しみならぬ涙とめども無く流るゝなり。ごは我が病にや、病なりとも我はこを癒さむとは思はず、 この折の我が情ほど複雑なることあらす、色といふ色韻といふ韻は悉く我が心の中に揺ぎて、ほとほと限無き宇宙を我が體に収め得たるやうなるが深く樂しければなり。


引用・参照・底本

『默想の天地』沼波瓊音 著 明治四十三年八月年廿四日發兌 東亞堂

(国立国会図書館デジタルコレクション)