平和の願ひ2022年08月05日 15:55

与謝野晶子 愛の創作  感想集
『感想集 愛の創作』輿謝野晶子 著

 (90-92頁)
 平和の願ひ       2022.08.05

 猫と鼠とは強者と弱者との關係である。弱者は強者に降伏さへすれば大抵命だけは助かる筈のものであるのに、猫と鼠との間には主從關係の成立する見込が全く無い。兩者が會へば必ず強者の餌食にされて仕舞ふ。協調主義も温情主義も無い。依頼主義も屈從主義も許されない。
 猫が鼠を食ひ殺すのは鼠を憎むからでは無いらしい。鼠は到底猫に反噬し得るものでも無いし、固より猫の生活を脅かさうとする野心を毛頭持つて居ない。猫に對する鼠は唯恐怖の塊に遇ぎない。其事は猫に於ても十分に知つてゐる筈である。鼠族を征服せねば猫の自存を危くすると云ふものでは全く無い。それだのに猫が鼠を斷えず狙ふと云ふのは、鼠の肉の美味である事が猫の食慾を誘るためであるかも知れない。人間が厭だと感じる鼠の惡臭までが猫には垂涎に値する芳香であるかも知れない。若しさうとすれば、鼠の肉と猫の味感との間に斷つことの出來ない悲劇の運命が約束されてゐるのである。
 大抵の弱者は永い生存過程に強者に對して自ら衛る特殊の作用――或る動物の保護色の如きもの――を發生してゐるのに、鼠にはどうして其れが缺けてゐるのであらうか。猫の前に於ける鼠は、餘りに素朴な犠牲者として、昔も今も抵抗力を持たな過ぎる。
 併し、弱者は必ずしも亡ぶものでは無いらしい。あれだけ鼠に對して絶對の優強權を持つてゐる猫も、到底鼠を取り盡すことは出來ない。猫の前に置かれた鼠は無抵抗の肉塊であるが、猫に見附からない鼠族は、他の所で大威張に威張り、大暴ばれに暴ばれてゐる。猫が人間を困らす事は極めて尠いのに族して、鼠が人間を困らす事は普通の事である。たとひ猫に食はれたり、人の仕掛けた捕鼠器や「猫いらず」に係つて死ぬ不運な鼠があるにしても謂はゆる「鼠算」で殖えて行く鼠族の數に比べたら、ほんの一小部分に過ぎない。猫を離れて考へると、鼠の生存は、廿世紀の世界に、獅子や虎や象の生存よりも安全に恵まれてゐる。人間に與へる鼠害の大きさから言へば、鼠は必ずしも弱者で無く、一種の強者であるとさへ思はれる。

 私は強者と弱者との對立する事を厭ふ。さう云ふ言葉でも無くしたい思ふ。この二つの對立を舞くした事が、平和の狀態である。さう云ふ狀態の社會は容易に來ないであらう。全人類が愛し合ひ、敬し合ひ、助け合ひ、働き合ひ、働き合ひ。樂しみ合ふまでに、社會を改造し完成する事は、更に幾世紀かの時日と努力とを要する事であららう。今日にして其れを言ふのは空想かも知れない。併しこの空想は現代の何人の胸にも發生してゐる。之は尊貴な空想である。猫や鼠の如き他の生物の間に無くて、ひとり人間にだけある空想である。私はこの空想が人類を現實以上により善く引上げるものである事を信頼したい。
 華盛頓會議の提唱された時、或る人人は之を空想として經視した。併しその結果は軍備縮小の英斷となり、或數の軍艦の破壊が近く實行されるのは疑ふべくも無い。之は現代人が新しく生み出した人間生活の方法であつて、歴史主義では説明の出來ない突發的事実である。空想が少しつゝ目前の生きた事実になつて行く。人間は猫や鼠のやうに素朴な運命の中に妄動しては居ない。自ら新しい運命の主人となろ事の出來る能力を持つてゐる。
 と云って、平和の完成は遠い。佛蘭西人と獨逸人との人種的、歴史的。氣質的の憎惡の如きは、理論の力の及ばない所、殆ど本能の領域に屬した根深さを持つて對峙してゐる。さう云ふ巖礁がまだ外にも幾つか横はつてゐる以上、世界平和の運動は、猶しばしば逆轉して性急な平和主義者を失望させるであらう。(一九二二・三・三)

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